━━ 『特許を斬る!』知財経験34年 ・・・ 愚禿の手記 第107号 ━━
何かと話題には事欠かない一般社団法人のJASRAC(日本音楽著作権協会)ですが、著作権使用料の徴収問題で音楽教室との間で争われていた5年越しの訴訟が、最高裁の判決でやっと決着したようです。
この訴訟は、講師が生徒を指導するカワイやヤマハなどの音楽教室で使われる楽曲の著作権に関する訴訟です。
JASRACは、講師が指導用に演奏する楽曲と生徒が練習用に演奏する楽曲の両方から著作権使用料を徴収する方針で各音楽教室に対して受講料収入の2.5%を請求しました。
一方、教室側は、これを不服としたため、裁判で争われることになりました。
一審の東京地裁は、教師も生徒も支払いの対象になるとの判決を下しました。
これに納得できなかった教室側は、二審の知財高裁に控訴しました。
その結果、知財高裁では、教師からの徴収は妥当としながらも、生徒からの徴収は不当との判決を下したのです。
一審と二審の判断が分かれたため、最高裁の判断を仰ぐことになった本件訴訟は、最高裁が二審(知財高裁)の判決を支持したことで決着しました。
そもそも、JASRACが音楽教室からも著作権使用料を徴収しようとするきっかけとなったのは、カラオケスナックで歌われる楽曲から使用料を徴収しようとしたJASRACが、最高裁の判決にお墨付きを貰ったからです。
このカラオケ訴訟では、最高裁が、音楽の利用主体はお客ではなく店側にあるとして、カラオケ店から著作権使用料を徴収することを認めました。
これが、1988年の最高裁判決、通称「カラオケ法理」と呼ばれる判例で、これを黄門様の印籠のごとく振り翳したJASRACが、楽曲を使用してビジネスを営むフィットネスやダンス教室、歌謡教室などから次々と使用料の徴収に乗り出したのです。
しかし、今回の音楽教室訴訟で最高裁は、指導する先生の演奏は利用主体と言えるが、練習する生徒は演奏技術の向上が目的であることから、演奏の主体は教室ではなく生徒本人であって教室に支払いの義務はないとした二審の判決を支持したのです。
この最高裁の判決に、多くの人が「バランスの取れた良い判決だ。JASRACの行き過ぎた行動に歯止めが掛かった。」と、高評価のようです。
確かに、音楽教室に通う生徒は、自身の技術向上が目的で教室の利益とは無関係のはずです。
にもかかわらず、生徒からも使用料を徴収するのは、どう考えてみても行き過ぎのような気がします。
JASRACに支払う使用料の増加は、引いては教室に通う生徒の授業料の増額に繋がります。
これでは、教室に通えない生徒も増え、健全な音楽教育の育成に支障を来すのは明らかです。
生徒たちから取り立てるのではなく、彼等が成長して素晴らしい楽曲を世に送り出せるようになって楽曲の利用者を増やすほうが、余程効果的で理に適っていることに、何故、気付かないのでしょうか?
JASRACは、自ら楽曲を創作するのではなく、創作者に代わって使用料を徴収する代行業者です。
特許の世界にも、発明者の権利保護を大義名分の如く振り翳して、メーカに巨額な賠償金やライセンス料を請求するパテントトロールと呼ばれる代行業者がいます。
両者の共通点は、相手に金銭を請求する権利はあっても、相手から請求されるリスクは全く無いことです。
失うものが無い人の発想は、時として常人の域を遥かに超える形となって現れるものです。
それに歯止めをかけるのが、司法機関の役目です。しかし、司法機関は、おかしいからと言って自ら主体的に歯止めをかけることは絶対にありません。
飽く迄も、申し立てがあった時のみ動ける機関なのです。
今回の例も、音楽教室を運営する250人以上の人たちが、最後まで諦めずに戦い抜いたからこそ勝ち取った判決です。
従って、「これは、おかしい!」と思ったら泣き寝入りせずに、敢然と立ち向かうことが大事なのです。
リスクのない人と戦う場合、『戦わずして勝つ』という戦術はあり得ません。
しかし、リスクがない分、暴挙に走り勝ちなのも事実です。
相手の行き過ぎた行動を冷静に判断して、『訴訟、上等!』の覚悟で毅然とした態度で臨むことです。勝機は必ず訪れることを信じて。
さて、今回の音楽教室訴訟で、もう一つ感じたことがあります。
それは、著作権使用料(ロイヤルティ)の徴収方法です。
JASRACは、各音楽教室に受講料の2.5%を請求しました。
これは、演奏する楽曲の数を対象とするのではなく、教室の売上げを対象にしたものです。
本来ならば、一曲ごとに発生するはずの使用料を、曲数ではなく教室の売上げ全体から徴収するやり方は、特許や商標のライセンスで云うランプサム(固定額徴収)方式と同義です。
言い換えれば、「何曲演奏しようが、しまいが、貰うお金はこれだけね。」という徴収法です。これは、取り立てる方からすれば、管理も簡単で大変便利な方法と言えます。
この場合、同じ金額を支払うならば、より多くの楽曲を演奏する方が安くなるのは当たり前です。
その結果、コスト意識の高い教室は、演奏の内容より、数をこなす指導になってしまわないかが心配です。
特許の場合、より多くの製品を生産する方がロイヤルティ単価が下がるためコスト低減になると言って雑な大量生産方式を採用して、結果、リコール問題に発展したケースを見てきただけに気掛かりです。
余計な心配かも知れませんが、「一曲当たり幾ら」の方が生徒の為になるのではないかと思ったりしてみた今回の判決でした。
それでは、また。
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★ 編集後記
ふとした拍子に同じ曲が頭の中をぐるぐる回って離れないことって、よくありますよね。
最近、「マメな私は、豆と野菜で栄養を摂る(゜゜)~」というCMソングのフレーズが繰り返し流れて仕方がありませんでした。
これを脱出するために、遂に私は、クノールのカップスープを買い込んで一気飲みしてみました。
しかし、哀しい哉、今でもぐるぐる回っています・・・。
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